進路・・どうする? タコ師匠のバイク史:その30

中学に入ると部活を始めます。

柔ではなく弓矢部。

古武術はいくら身につけても損はないやろと入部しましたが、初日。

上級生が腕立て伏せしている僕の背中を踏みつけよったんです。

その瞬間、僕の肉体はイタコと化し、インドのアイツを憑依させるのです。

◼タイガー・ジェット・シン◼

フェンスに逆さ貼り付けにし、ジャージを脱がせククリ付けて、タワシで脇腹の皮の薄い処を全力でこすってあげました。

小さな上級生たちは手出し出来ず、見てみぬフリ。

1年や2年早く産まれたぐらいで、僕より小さく細く、腕立てや腹筋の回数も10の単位の癖に人を人とも扱わないような所行、江戸時代なら斬られて終わり!

曲がりなりにも殺傷能力のある弓を学ぶ身なら、護身術ぐらいは勉強したほうがよろしいな。

どうやら此処には尊敬できそうな先輩はいなさそうだ。

そこに外周を走っていた体育教師が近寄ってきた。

「お前ら、こいつに悪さしたらシバかれて土佐犬のエサにされるぞ!」

◼別にシバいてもないし、太郎もこんな肉付きの悪いの食べへんて◼

体育教師は隣の家の兄ちゃんで、爺さんの門下生だ。

アホの癖に先生の免許取りよった。

何かと世話を焼いてくれ、いい奴なんですが、少しウザい。

体育教師の薦めもあり、2件向こう隣りの姉ちゃんがいるテニス部と、体育教師が顧問の陸上部を掛け持ちする事になります。

テニス言うても軟式なんで、錦織圭とかのテニスとは違って動体視力鍛える為のもの。

陸上部は大会の前の1ヶ月だけでよいのです。

クラブ活動してたら勉強せんでも大目にみたろ。と体育教師の気遣いでした。

僕にとっての運動は、クラブ終わってからでした。

市役所に停めたゴリラで空手に向かったり、レスリングの日には自分の足で走って、柔の日は歩いて帰ります。

爺さんの紹介で効率的に稼げる仕事についた馬場君のお母さんに頼まれて、馬場君もレスリング道場に紹介しました。

僕よりも背のデカい体重のある馬場君はレスリング道場にて覚醒したようです。

レスリングで覚醒した・・・のは数年後で、CD 125の乗りかたを覚えたのです。

この頃のCD はチェンジがカブと同じなんで誰でも乗れますが、上手にギアチェンジできてたんです。

何やカンヤと勉強せず、格闘技と小さなバイクばかりに精を出していた僕。

当たり前ですが、そんな僕にも平等に進路相談の時期がやって来ます。

先生「学力で合格するのは農業の学校だけ。運動で合格するのは6校から内定は来てるで。」

僕「高校なんぞ行かんと新日本プロレスに行くから。」

先生「・・・」

177㎝81㎏中2の冬にはなかなかの体格に成長していました。

そして180㎝、80㎏と履歴書に書いて新日本プロレスに手紙を書いたのです。

倍賞(※当時の猪木夫人だった倍賞美津子の兄弟が取締役をしていました)

僕は中2ですがタイガーマスクよりも背が高く、星野勘太郎よりも強いです。

卒業したらたぶん坂口(※坂口憲二ささんのお父さんです。)の背は抜かします。

アメリカで海外修行するときのために、英語だけはしっかり習いました。

アントニオ猪木を倒す日はいつがいいですか?

大阪のなんばの府立体育館やったら場所わかります。

猪木に勝ったらナンボぐらい貰えますか?

この手紙と写真を封筒に入れて新日本プロレスに送ったのですが、切手の所に収入印紙を貼ってた為に、憎き簡易郵便局から家に返送され、親父に封を破られ、中身を公開されます。

親父「お前爺ちゃんよりチッサイやんけ!ウソ書くな!」

僕「オトンよりはデカいわ!四捨五入したら一緒じゃ!」

親父「九九も知らん癖に難しい事言うねんの」