将来考えて、商売、商売!! タコ師匠のバイク史:その41

31歳過ぎましたが、まだ年間のうち2ヶ月ぐらいはラスベガスに出向き、試合していたのです。

肉体改造機具メーカーがスポンサー契約してくれてましたので、実家の柔道場に設置したのが1台。

ラスベガスの家に設置したのが1台。筋トレをしながら色々考えます。

もういつまでも格闘技で生活は出来ません。

自分の第2の人生、面白おかしく生きる為の作戦が始まります。

  1. ハワイか西海岸で日本人むけの味のタレを使った焼肉屋
  2. ハワイで日本人むけのうどん屋
  3. ハワイか西海岸で日本人むけのお好み焼き屋
  4. ハワイか西海岸で日本人むけのラーメン屋
  5. グアムで日本人むけの焼肉屋
  6. グアムで日本人むけのうどん屋
  7. グアムで日本人むけのラーメン屋
  8. 沖縄で内地の人むけの焼肉屋
  9. 沖縄で内地の人むけのうどん屋
  10. 沖縄で内地の人むけのラーメン屋

とにかく寒がりな僕は、暖かい場所で過ごしたいあまりに、上記の1つを始めました。

まず、台風の季節はどうしようもないグアムと沖縄は避けました。

ラスベガスの自宅のガレージを改装して、チキンベースの鶏ガラスープにオリジナルの固麺、ササミと牛赤身の笹刻みトッピングをしたラーメンを売り出します。

『muscle noodle』 筋肉麺

本格派のラーメンが海外で食べられるって事で、すぐに繁昌店になりました。

場所は観光地ではなく、カジノやホテルで働く人達が住む住宅地にポツンとある店舗です。

日本人向けの旅行会社のバス停が徒歩3分ぐらいにあるだけ。

宣伝もせず、オープン記念セールもなしに大変ありがたい事です。

3ヶ月従業員の皆に教えて帰国後、日本に戻り、半年後店に連絡なしに足を向けたら気絶しそうなくらい客足が遠退いていました。

店長にラーメンを作らせると、全く味がしない。

  • スープをマニュアル通りに作っていない!
  • 麺の茹で時間がストップウォッチ使ってない!
  • 店内の清掃がなってない!
  • トッピングの肉の質が落ちている(指定の部位でない)!
  • 売上高、仕入れの帳簿が全く書かれていない!

お前らがこれをやらな今の給料はなくなるぞ。

将来の理想もつかめないぞ?

やらないなら100ドルあげるから辞めて。

と書かれたマニュアル本もホコリを被ったまま放置されていました。

僕は、典型的なB型で雑ですが、あくまでも日本人の価値観・手法で行動しています。

お客さまはアメリカのおおざっぱな味覚にうんざりした日本人観光客の人達なんです。

ブチキレた僕は、この店を一旦閉めました。

マニュアルもレシピもあげるからうちのガレージから出ていき自分の資金で開業しなさいと。

事実上の解雇です。

その代わりの人を探し求人の募集の張り紙を、ジムの玄関に貼りました。

数ある求人の履歴書のような紙を見ていると知ってる顔を、見つけたのです。

僕が試合後に立ち寄るホテルのバフェで働いている日系人のおばちゃんが応募者の中にいたのです。

そのバフェは少し高いのです。

高いタワーがあるダウンタウンの奥まったビルの2階(日本で言うと新世界のじゃんじゃん横丁)にある中華料理のバフェは酒別料金、食べ放題で約1400円。

そのホテルはストリップ通り(日本で言うと御堂筋)一等地にあるカジノの2階にあるステーキ等も扱うのですが、酒別で食べ放題約5000円。

チップを10ドル渡していたので約6000円かかりますが、美味しくてステーキソースも自分の好みのを用意してくれる等のサービスをしてくれます。

味はどちらも日本人向けなんで、店のお客さまにも紹介したりしていました。

そのおばちゃんは僕が日本人だと全く気付かず、10年以上英語で会話していたのです。

ホテルで働く人達が住む所と、大金持ちが住む所の2ヵ所しかなかった時代ですから、家が近所でヘローやグッモニンぐらいのあいさつはしますし、月に2回ぐらいはバフェに訪れ食事すると、僕の姿を見つけるや否やチップ目当てに走ってくるおばちゃんですから。

2週間もかからずにラーメン屋の仕事を覚えたこのおばちゃん、ベスパを乗り回しています。

仕事に行く前に子供を小学校前まで送り届けるのですが、2ストの白煙をあげてなかなかのスピードで走るので地元でも有名人でした。

僕は、この真っ赤なベスパの左半分にOPEN、右半分にCLOSE と白いペンキで勝手に落書きします。

おばちゃんは爆笑しながら

『ファッキン アイル キリングユー』

殺すぞ!

とは言われたものの、僕の落書きのクオリティーの高さに驚くおばちゃん。

きっちりとマスキングをし、レタリングされた文字と重ね塗りで、更にスパッタリングでゴールド色をちりばめました立体感のあるopenですから。

やがて店は再び繁昌店に戻り、やがて僕の家の敷地も買い取るくらいに成長しました。